日射しに匂いなどあるわけがないのに、この季節をきちんと表す端正な文章に続くと、なるほどそうかもと頷いてしまったりする。
この美しい季節との出会いの後、主人公は、どこかへ向かう彼女に付いて延々と歩くことになる。四ツ谷、市ヶ谷、飯田橋、神保町、お茶ノ水、本郷、そして駒込へと。
四ツ谷から飯田橋へ続く堀沿いの土手は、確か外壕公園と呼ばれる遊歩道で、桜の名所だったはず。昔々、何度か花見をしたことがあったが、葉桜の頃に訪ねたことはない。きっと木漏れ日が美しいだろう。
僕と彼女は四ツ谷駅で電車を降りて、線路わきの土手を市ヶ谷の方向に歩いていた。五月の日曜日の午後だった。朝方降った雨も昼にはあがり、低くたれこめていた鬱陶しい灰色の雲は、南からの風に追われるようにどこかへ消えていた。くっきりとした緑の桜の葉が風に揺れて光っていた。日射しにはもう瑞々しい初夏の匂いがあった。
村上春樹/「螢」〜『螢・納屋を焼く・その他の短編』(新潮文庫)
2020年5月10日日曜日
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