春の晴れた日になにをしようかとうきうきしているのか。いや、柔らかな日の光が、なにものにも束縛されることのないわが身を祝ってくれているように感じているのだ。
約束もなければ予定もない。今日だけのことではなく、当面しばらくなにもないのだろう。もしかしたら、仕事も辞めてしまったのかもしれない。世のしがらみとは3月31日をもっておさらば。新年度は晴れて自由の身なのだ。
どこへでも行けてどこまでも春 天坂寝覚
自由を謳歌するためには、どこかへ旅立たねばならない。そう、家にこもっていては普段と同じではないか。どこへでも行けることを証明するために、ここではないどこかへ行けと私の自由が命じている。
どこへ行こうとも、そこはきっと春の地なのだ。この春を謳歌せよと私の自由が命じているのだ。
元気に泣く子がいてずっと日向を向く電車 天坂寝覚
南へ行く電車であろうか。通勤ラッシュはすでに終わり、都心から離れていく電車は空いている。そんな気持ちの余裕からか、乗り合わせた赤子の泣き声も気にならない。むしろ、春日を浴びながら進む電車の中では、生命力の必然と聞こえるのだ。
作者には「ここにいては見えない海を見て暮らす」という句があるから、日々あこがれた海へと続く路線かもしれない。
傘置いて辞めていった 天坂寝覚
電車に揺られながら、辞めた会社に傘を忘れたことを唐突に思い出したのだろう。かつて「新しい靴で辞めた」と詠んだ作者は、辞職にあたっては、なにかを残さないと気が済まないらしい。
多分、コンビニで買ったビニール傘。辞めたあいつの傘かとわかる人は少ない。いや、誰もわからなくていい。
菜の花すばらしく咲いてここは遠いところ 天坂寝覚
車窓からの風景か、電車から降りたった地か。いずれにしても、一面の菜の花が咲く様に、ここが目的地だったと強く思ったのだ。
ここではないどこか。時間でも距離でもなく、私が感じる遠いところへ私は来た。目的は達したのだ。
ぼうっと覚めて髪の長さ持て余している 天坂寝覚
乾かしてきた服抱いて熱いな 天坂寝覚
以下は後日談。起きるとはなしに目覚めれば、髪が伸びていることに気づいたり、コインランドリーで洗濯した服が乾燥機の余熱で火照っていることに新鮮な思いを巡らしている。当たり前のことも発見と思えるような瞬間がある。それも旅の効用かもしれないが、さらなる日常の連続は、その旅も現実の出来事ではなかったような気にさせてしまう。
さっきまでが夢とわかりきって眠る 天坂寝覚
いつまでもうすあかるい夜の誰かも咳をしている 天坂寝覚
ずいぶん遠いところまで行ったと思ったのに、それも夢だったのかもしれない。でも、そうだったとしてもがっかりしたりはしないのだ。すべては折り込み済みのこと。そう、日常は日常として続き、ふわふわとした夜へ煙草の煙のように消えていくのだ。
『ここは遠い』天坂寝覚
「解なし」(自由律俳句を作っている人(天坂寝覚)のブログ。)より
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